コラム『映画を観ない人はいても物語を見ない人はいない』/アクセル神田

映画を観ない人はいても物語を見ない人はいない


■人間は何を嗜んでもいいし、何を嗜まなくてもいい自由がある

アクセル神田
アクセル神田
コラムニスト
文字数:約1500字|読了時間:約3分

何てことはないタイトル通りのコラムなのですが、最近の長雨の影響で余暇の時間を映画鑑賞でやり過ごす機会が多くなり、視聴中にふとこの(私なりの)真理が思い浮かびました。急に妙な思想に傾倒したわけではありませんので、そちらについてのご心配は無用です。

映画を見てその感想を書く。

これが自分の中でほぼルーチン化されている作業なこともあって、私には映画文化がある国の人間であれば、皆が何かしらの映画作品を当然に娯楽として楽しでいるという思い込みを持ってレビューを書いているフシがあるように思われます。

ところが、自分がこれまでの人生の中で出会った人々のことを良く思い返いしてみると確かにいたんです。「映画は好きですか?」という質問に対し、「映画は全く見ない」と答える方々が。ごく少数ではありましたが、私が出会った数は1人や2人ではありません。

そんな話を聞かされた時は地上波でやっている映画でさえ本当に全く観ないのか?ネット黎明期の「新聞やテレビは全く見ない」発言のように、気取って言っているのではないか?それぐらい私の中の常識ではありえない言葉でした。

でも、これって普通なんですよね。深堀してみると「小説や漫画は読む」「TVの連ドラは見る」「ニュースだけは見る」なんていう付け加えも入って来たりして、全く運動をしない人がいるように、カラオケを歌わない人がいるように、映画を全く観ない人もいる。

皮肉めいた言い方で例に挙げてしまった「新聞やテレビは全く見ない」人だって、ネット上のニュースサイトや動画サイト等を閲覧している方が時間を有効に使っていると思っているだけで、ごく普通にあり得る価値観なんです。野球を見ない。サッカーを見ない。これだって一緒です。

こうした媒体に対する趣味嗜好というのは、老若男女千差万別で一括りにできないもので、「人間は何を嗜んでもいいし、何を嗜まなくてもいい自由がある」という当たり前の事になぜこれまで気が付かなかったのか、ハッと、これまでの自分が急に恥ずかしく思えてきました。

今回のふとした暇に見た映画を通して、図らずもこのような実感をしたわけですが、同時にそれでもそれらの根幹である「物語」そのものに全く見ずに生きている人は存在し得ないんだというタイトル通りのマイ真理に辿り着けたのも事実です。

ニュースも一種の物語であり、スポーツを観戦するのも実際にするのも物語、音楽鑑賞だって、曲の中にストーリー性があるからこそ成立する趣味です。

それら一切合切の娯楽物を嗜まない、触れたことがないと豪語する人間でも、眠っている間に夢という破綻した物語が見ます。私は夢さえも見ないという人でも、自分の人生というタイトルの物語を自らの瞳で見ています。

フィクションであってもノンフィクションであっても、人間とはつくづく「物語」からは逃れられない存在なんだとこの30を超えた歳になって初めて自覚しました。ルーチンの映画鑑賞によって、これほど神妙な気分になったのも初めてです。

ただ、一つだけ気になるのはこの時観た映画が、私にとってはあんまりな物語だったこと。なんででしょう。せっかくヤケに真面目ぶったコラムを書いているのに、そのきっかけになった作品がほとんど心に刺さっていないんです。

はっきりいって開始から終わりまで修行僧のような心境で画面を見つめていました。それが何の作品だったのかは、おそらく当サイトにて明らかになるでしょうが、こういう作品を自己啓発系とか言うんでしょうかね。集中せずに余計なことを勝手に考えながら私にも非はありますが、自分に全く合わない映画を見ているとこうした普段らしからぬ思考に逃避しがちになるものです。

観賞作のレビューをしたためるクセがついてから、途中で見るのを辞めるという選択肢をなかなか取れないのが、なかなかの悩みになっている今日この頃ですが、こればっかりは変えられない性分なので仕方がありません……


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執筆後コメント

だけど 一度もエッチなビデオを見たことがないという男だけは信用しません

コラムニスト:アクセル神田
担当:ドラマ